こんにちは!わっこです。
プロフィールを見にきてくださりありがとうございます。
私は現在45歳。都内で派遣社員として働いています。
最近誕生日を迎えて、初めて気づいたことがあります。
45歳、もはやアラフォーではない(泣) です。
20代、30代の頃は「アラフォー=おばさんの代名詞」だと思っていました。
ググるとアラフォーは43歳まで、44歳までと諸説ありましたが、
どこにも45歳は含まれていません。
おばさんだと思っていたアラフォーが、すでに年下、、、衝撃!
約10年間派遣の仕事を続けてきたけれど、たいしたスキルを積み重ねておらず
このままのほほんと50代になったら、、、私、絶対仕事にあぶれる。
やばい!今、何か手を打たなくては!と、
検索してたどり着いたのがWebマーケティングです。
Webマーケティングとは?
インターネットを使って多くの人に商品やサービスのことを知ってもらい、興味を持ってもらって購入をうながす方法。
社会のデジタル化が進み、オンラインでの活動がますます一般的になっているので、今後、需要が増す傾向がある。
私は
Webマーケティングを身につけて、今の仕事は辞めずに
在宅ワークの副業で1年後に+月10万円を安定して稼げるようになる
ことを目指します。
なぜこんな選択に至ったのか、なぜWebマーケテォングなのか
まずは自己紹介させてください。
基本情報
ニックネーム:わっこ
年齢:45歳
職業:派遣社員
家族:夫婦、小中学生の子2人
幼少期:お姉ちゃんでしょ!の呪い
私は広島県の田舎に生まれました。
鉄道(電車ではない)は1時間に2~3本、自転車に乗っていたら
後ろから野性の鹿に追い抜かれたことがあるくらいの田舎です。
年子の弟と5歳下の妹、両親、父方の祖父母、曽祖母の8人暮らし。
自分で言うのもなんですが、私は幼い頃からしっかりしている良い子と言われていました。
下に弟と妹がいたので家の大人たちはみんな私にこう言いました。
「お姉ちゃんでしょ!」
・お姉ちゃんは弟と妹のお手本でなければならない
・弟や妹が何か悪さをしたらお姉ちゃんの責任
・困っていたら助けてあげるのがお姉ちゃん
いろんな圧が込められた呪いの言葉をいつも浴びていました。
アルバムを見れば赤ちゃんだった私を母が抱っこしている写真はありますが、
私の記憶には母に抱っこされた感覚が残っていません。
母の両側はいつも弟と妹の指定席でした。
ちょっと妹のマネして甘えてみたことがありましたが、
母は面倒臭そうな顔して「まだチヤホヤされたいんか?恥ずかしい」と一蹴。
お姉ちゃんが甘えるなんてみっともないのです。
当時6歳。小学校に入る前から、私はお姉ちゃんだからしっかりしていなければならない、もめそうなときは私がなんとかしないと怒られる、そんな気持ちがありました。
今ならわかります。
良い子は良い子でも、正しくは大人にとって都合の良い子。
周りの顔色をうかがい、波風たたないよう自分が遠慮する方を選んでしまう根っこは、
幼少期に形成されたと思います。
小学生:武器を手にいれる
小学生になると、私は「勉強」という名の武器を手にいれました。
真面目な性格のせいか成績はいつも良かったので、
テストや通知表が返ってきたときは大人たちが喜びほめてくれました。
「さすがお姉ちゃん!」と。
またお姉ちゃんか、、、とも思いましたが、
自分を認めてもらえた安堵感が嬉しかったです。
勉強ができれば私には居場所があると思っていました。
中学生:稼げぬ女に自由はない
実家は当時こてこての男尊女卑。
食卓の席には序列があって、上座には男しか座れません。
食事の時は祖父と父は椅子に座ったら動かず
「飯、ビール」と言えば祖母や母が運びます。
お風呂も男が先、女が後。間違って女が先に入ったら、風呂洗いからやり直しです。
テレビで芸能人の離婚が取り上げられていた時、祖母がぼそっと言いました。
「女でも稼ぎがあればいつでも離婚できるけぇ、ええよね」
私は思いました。
おばあちゃんは稼ぎがないからおじいちゃんの言うこと聞くしかないんだね。
おじいちゃんが亡くなったらお父さん(息子)に従うしかないんだね。
自分に稼ぐ力がないと、辛くてもその場にとどまらざるをえない
この頃すでに私は将来は絶対に専業主婦にはならないと心に決めていました。
言いなりの母と祖母の姿が頭に浮かぶので
怖くてその選択肢を選べないと思ったのです。
高校生:死にかけて変わり始める
高校はトップの県立高校に進学しました。
周辺中学の優秀層が集まるだけあって、
そこでの私の学力なんて普通どころか最下層に転落。
三者面談で「中学校ではこんなんじゃなかったんです」と
母が泣くくらいの低迷ぶりでした。
武器だと思っていた勉強は狭い世界でしか通用しない、もろいものだったと痛感します。
家にも学校にも居場所がなくなり、私なんか消えちゃいたいなと思っていた矢先、
転機が訪れました。
交通事故 です。
自転車通学中に乗用車に跳ねられ、救急車で搬送されてすぐ手術。
全身が脈を打つ初めての感覚に「私、死ぬんだ」と思いました。
痺れと歩きにくさは数年間の残りましたが、
幸い命は無事だったので、今このブログを書けてます。
交通事故で学んだのはこの気づきです。
・人は死に方や死ぬタイミングは選べない
・ある日突然うっかり命を落とすことがある
そして私はこう思いました。
そうだ、大学は県外に出よう!
1回死にかけたことで判断基準が
「親がどう思うか?」から
「車いすや寝たきりになった時に私は後悔しないか?」に変わりました。
偏差値30台から偏差値60台の県外の大学を目指す「偏差値倍増計画」がスタート。
入試本番まで1年もなく担任も親も無謀と呆れていましたが、
自分の人生、自分で落とし前つけにゃあいけん!(広島弁)
と広島県民の血が騒ぎます。
起きている間はずっと勉強し続けた結果、、、
連戦連敗
A判定の滑り止め含めて私立大全滅。第一志望も前期敗退。
黒星しかない、、、詰んだ、、、からの
第一志望後期合格!
戦績は1勝5敗
偏差値はギリギリ倍増!合格もギリッギリの滑り込みでした。
事故で死にかけなかったら
私は親が望む大学を出て、親が望む就職してずっと地元にいたと思います。
・幸も不幸も点では判断できない
・振り返ると別の意味を持つ
「運転手さん、あの時私を跳ねてくれてありがとう!」と
事故に感謝できるように生きようと思いました。
大学生:私は選ばれない 就職氷河期の負け組
逆転合格でホッとしたのも束の間。
就職氷河期の中での就職活動が始まりました。
連戦連敗。内定ゼロ。
10/1は入社式で、電車内に同期らしきメンバーと盛り上がる学生がいる中、
私は長引く就活でクタクタでした。
世の中には選ばれる人と選ばれない人がいて、私は後者で負け組なんだと、隠れるように別の車両に移ったことを覚えています。
内定が出ないまま年を越し、卒業して無職で実家に戻るしかないのかと思っていた時、
地元TV局の番組制作(契約社員)の求人を見つけました。
証明写真ではない写真を履歴書に添えなくてはならないのに
期限はその日の消印有効で時間がない。
たまたま見つけた、大きなもみじ饅頭との2ショット写真を同封しギリギリ応募。
結果は、、、30倍以上の倍率を突破して採用!
この時すでに2月。就活もギリッギリ滑り込みセーフ!
社会人
20代:ブラックな黄金時代
私は地方のテレビ局のニュース番組制作スタッフとして社会人をスタートさせました。
地方局は人が少ないため、ネタ探し、取材、構成、撮影、編集、放送など1人で何役もこなします。(専門の職種もあります)
テレビ局と聞くとキラキラしたイメージがあるかもしれません。
でも実際は地味で泥臭い仕事の積み重ねです。
新人研修のような手厚い準備期間はなく、
ざっと説明を受けたら先輩の仕事を見よう見まねで
やりながら怒られながら覚えていく職人スタイル。
入社したその日から残業続きで、
最初の2年間は月の残業が100時間を切ることはありませんでした。
徹夜も当たり前で2日、3日連続で寝れないことも普通。
昔のCMに「24時間働けますか?」がありましたが、それどころではありません。
1分1秒を争い、放送前には怒号や罵声が飛び交うストレスフル職場で
脱毛症や心の病気、体重爆増(1年で+30kg)、失踪する人もいました。
超絶ブラック ですよね。
でも私はこの番組制作の仕事が大好きでした。
9割以上はしんどくて逃げたくなることも多いけど、
それをチャラにしてくれる一瞬があるのです。
「わっこさんに取材してもらえて良かった」、「冥土の土産にします!」と喜んでもらえたり、取材先と心通う瞬間があったり、同僚とせっぱ詰まりながら制作したものが評価されたり、、、
このテーマに、この人に出会えて良かった、一緒に働けて良かったと
心震える瞬間が、また次へと向かうエネルギーになる仕事でした。
学生の頃は、人は給料のために働くと思っていました。
でも相手に喜んでもらえて自分が貢献できている手応えが
給料と同じくらい大事で働く意義で、自分が生きている実感だと気づいたのです。
働き方は超絶ブラック。
でも仕事の厳しさも面白みも教えてくれた私の黄金時代です。
30代前半:産む女はいらない
アラサーになると結婚と出産の悩みが色濃くなりました。
当時付き合っていた彼と結婚することになり、
東京に住まいも仕事(同業、正社員)も移りました。
正社員の特権だった産休、育休を2回取得し、仕事と育児の両立に奮闘していましたが、
男性中心の職場では子育てに理解はなく、妊娠前から上司のこんな言葉に耐えていました。
(妊娠前) 「ぶっちゃけ、産む女はいらない」
(1人目妊娠報告時)「(ため息)+お前のキャリア終わったな」
(1人目育休復職時)「2人目産んで戻ってくるところがあると思うなよ」
(2人目育休復職時)「仕事もしたいとか欲張りすぎだろ。母ちゃんやっとけ」
正直、、、殺意 を覚えました。
我が子が将来、このクソ上司世代の老後を支えるのかと思うと悔しすぎて吐きそうだったけど、何を言っても自分が不利になるだけなので、黙って心の中で吹き矢を飛ばすにとどめました。
令和の今なら完全アウトなハラスメント発言ですが、まだ普通に言える時代と業界でした。
夫は毎月1週間〜2週間の出張があり、両実家とも遠方の完全ワンオペ。
会社でも家でもタスクの消化に必死で睡眠時間を削るだけ削っていました。
これ何の罰ゲーム?出産ペナルティ?
毎日が戦い。毎日戦死するように寝落ち、、、
そんな生活を続けていたら、顔面と右手が痺れるようになりました。
交通事故の後遺症です。限界でした。
自分が壊れる前の身体からの警告だと思い、
会社や働き方を変えながら、約14年間続けてきたテレビの仕事は辞めました。
子どもが小学校に入ったら続けられない仕事だし、
私が仕事と働き方を変えれば自分も家族も楽になるから
これが正しい選択だと自分に言い聞かせてました。
30代後半:派遣ワーママになる
ここから派遣の仕事に変わりました。
PCスキルがなかったので、事務未経験OKの一般事務です。
「誰にでもできる簡単な仕事だから気負わずにやってね」
優しい言葉が地味にぐさっと刺さりましたが、
今まで縁のなかった土日祝休み、9時ー17時勤務、残業ほぼ無しは新鮮でした。
業務負荷が激減して身体が復活したので、覚えたPCスキルを役立てたいと思い
小学校のPTAや地域の子ども会、子どもが所属しているクラブの「書記」を
同時に3つ引き受けました。
書記はポスターやお知らせなどの掲示物や配布物を作成する仕事です。
基本的に前回分の日付や名前を更新するだけでOKですが、
それではつまらないと思い、面白く笑えるデザインに一新しました。
それが好評で、イベント参加者や入部希望者が増えたり、
地域のイベントや行事のタオルやポスターのデザインの依頼が来たりするようになりました。
自分が作ったものを喜んでもらえる手応えが純粋に嬉しく、
仕事で得られなくなった手応えは地域活動でも得られると知りました。
やりがいを家庭、仕事、地域活動に分散させると、どこかが不調でもどこかがカバーしてくれる、そんなバランスを取り方もあると気づいたのです。
40代:Webは身を助ける
派遣になって収入は激減しましたが、生活は穏やかになり、
「足るを知るってこのことかな」と思っていた私に、またまた転機が訪れます。
豪雨災害で実家が被災
大雨で川が溢れて実家一帯は床上浸水。
道路も鉄道も被害甚大で、陸の孤島状態になりました。
すぐに実家に駆けつけたかったけど、休みが取りづらい職場だったのと
収入が大幅に減ったため、交通費の捻出に躊躇する自分に歯がゆい思いをしました。
親にお金を送りましたが被害状況から見たら雀の涙程度。
私がもっと稼いでいたら、もっと多額の援助ができたのにと思いました。
「足るを知る」 →「全然足りないを痛感」した出来事で
・何かあったときにすぐ駆けつけられる、場所を選ばずできる仕事をしたい
・急な出費にも動じないくらい、もっと稼げるようになりたい
実家の被災を経験してこう強く思うようになりました。
たまたま副業でWebデザインの仕事を在宅でしているという記事を読み、これだと思いました。
そうだ!私もWebを学んで仕事にしよう!
隙間時間で独学を試みるもすぐ挫折したため、
派遣の仕事を辞めて4ヶ月間のWeb講座をオンラインで受講しました。
それまでは一般事務でアシスタントでしたが、
受講後は事務+Webの派遣の仕事につけました。
Web講座は35万円。受講後の年収は+60万円。
自分に先行投資して回収するスタイルが効率が良いと学びました。
その後コロナ禍に突入しても
Webの仕事はリモートワークに切り替えやすかったので
派遣でも在宅で仕事を続けることができました。
一般事務を続けていた友人は契約が打ち切りになったり、
収入が減ったりで大変だったと聞きましたが、
Webのおかげで、コロナ禍でも私は仕事に関しては全く困らなかったのです。
先送りせず、思い立った時に行動することが大事と実感しました。
とは言っても、やはり派遣。3年ごとの就職活動は避けられません。
4ヶ月学んだくらいの表面的なWebスキルだけでは、
今の仕事内容と時給が限界と感じています。
求人を見れば、50代になると選択肢が減ることも分かっています。
コロナ禍が終わって出社回数が増え、満員電車で通勤する日も増えてきました。
前より通勤がしんどいな、疲れが抜けにくいなと身体の曲がり角も感じます。
・在宅で働ける
・将来性のあるスキルで一時的ではなく安定して稼ぐ
・自分が貢献できている手応えがある
こんな仕事できるようにないかな?思っていたところ
「リモラボ」というオンラインスクールで新しく始まる
「Webマーケターコース」に出会いました。
Webマーケティング、、、よく分からないけど、これから需要が増してなんか稼げるらしい。でも怪しいかもしれないし、私には無理と1度はスルー。
でも引っかかる言葉がありました。
Webマーケティングを身につければ1年で20年分先を行ける
ワクワクしてしまってダメもとで応募したら、まさかの選考通過。
その連絡が来た日に個別面談をし、申し込んで今に至ります。
その選考通過の連絡と面談があった日は長女の誕生日でした。
その日は私が母になった日であり、「私、終わったな、、、」とキャリアの終わりを受け入れた日で、始まりと終わり、喜びと絶望が混ざり合う複雑な感情を持つ日です。
長女を産んでからの10数年間は、思うように働けなくなったモヤモヤ期間でしたが、
Webマーケティングを身につけたらそれを取り返せるかもしれない
と思いました。
あちこち迷走したり穴にハマったりした経験や失敗も、Webマーケティングにかけ合わせられたら別の意味を持つかもしれない、、、
そんな思いで、私にとっての「キャリアが終わった日」に「始まり」をぶつけて
Webマーケティングの学びと実践をスタートしました。
ここまで読んでくれたあなたへ
長々と続いた私の自己紹介を読んでくださってありがとうございます。
ここまで読んでくれたということは、
どこかに「あーー、わかる!わかる!」とか「ほんとそこ!」と共感いただけた部分があったのではと思います。
今の私は実績のない45歳の派遣社員ですが、スキルも稼ぐ力も手にいれるべく
・Webマーケティングを身につけ、選ばれる人材になる
・本業+副業で+月10万円を安定して稼ぐ
の目標を1年で達成します。
この目標をどのように達成するのか、達成したらどんな選択肢が増えて、
未来がどう変わるのかを発信していきます。
私の山あり谷ありの成長記録をまた見に来てもらえると嬉しいです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。